反出生主義に反論ができない。正しい考えとしか思えない件

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反出生主義って知ってますか?

文字通り出生に反対する、つまり人間は生まれるべきではないという思想です。

 

反出生主義が一般的に受け入れられにくい思想であることは間違いないでしょう。

でも、ぼくは反出生主義に対して反論が思いつかないんです。

そもそも人間は生まれてきて幸せなのか?

これは人によりますよね。

一緒にいて楽しいと思える友人に囲まれている、仕事が楽しくて毎日充実しているなど、自分が幸せだと感じている人はたくさんいるでしょう。

その一方、何をやっても失敗続きで人付き合いも苦手。

生きているのが分からなくて辛い、なんて人もいるわけです。

 

たしかに幸せな人もいれば不幸せな人もいる。
けどそれは生まれてくるべきか生まれてこないべきかという話には関係ないのでは?

普通はそう考えるでしょう。

 

でもですよ、出生って親がコントロールするものであって生まれる側には選択権がないですよね。

幸せになれれば問題ないですけど、不幸せな人生になっちゃったらどうすんの?

 

仮にAさんという人がいたとしましょう。

Aさんが目隠しをされて、ジェットコースターに乗せられたとします。

ジェットコースターといえば好き嫌いがハッキリ分かれるアトラクション。

遊園地に行ったら必ず乗るという人もいれば、死んでも乗りたくないという人もいる。

Aさんがジェットコースター好きだったら「楽しい思いができて良かったー」と思えますが、嫌いな人だったら「なんてことしやがる」って思いますよね。

 

ミスマッチを防ぐためには単純に「目隠しをせずにこれからジェットコースターに乗せるけどいい?」と聞けばいいわけです。

しかし、出生に関しては子供に選択権がない。

選択権がない人に対して無理矢理どちらかの選択を強制するのはどうなの?

 

ドラマなんかでは「産んでくれなんて頼んだ覚えはない!」というセリフをよく聞きますが、冷静に考えたらこれ、反論できなくないですか?

少なくとも自分が親だったとしたら反論できない。

 

ドラマの中では、その後なんやかんやありながらも親と和解するパターンが普通ですけど、現実は必ずしもそうとは限りません。

子供がグレて犯罪を起こすこともあるだろうし、自殺してしまうことだってあるかもしれない。

はたしてその子供は生まれてきて良かったといえるでしょうか?

人生の最期、自分が幸せだったと感じられる人はどのくらいいるのか

幸せに生きていたとしても、事故や病気になって自分が望まない形で死ぬ可能性もあります。

それまで順調に人生を歩んできたのに、急に交通事故や病気で死ぬなんてどんな気持ちだろう。

死ぬ瞬間は「どうして自分が」「なんで死ななければいけないの」という不幸な気持ちなんだろうと思います。

 

突然の不幸がなかったとしても、人間には必ず最期がある。

人生最期の瞬間、「これで良かった」「生まれてきて良かった」と思える人はいったいどれくらいいるのか。

決して多いとはいえない気がするんですよね。

そう考えると、やっぱり人は生まれない方がいいのでは?と思ってしまう。

誰もが幸せを追求できるわけではない

「幸せになれるよう頑張れよ」っていう人もいるでしょう。

けど、誰もが幸せになれるよう努力できるわけじゃないんです。

 

考えれば考えるほど、やっぱり人は生まれてくるべきではないという考えになってしまう。

人は生まれてくるべきだと納得できるだけの理由がない。

反出生主義に対する反論が思いつかないんですよ。

 

これって暗い考え方なんですかね。

もともと生きてても楽しくないなぁー、って思ってたのでそういうのも影響しているのかもしれませんね。

"死にたい"ではなく"生きたくない"という感覚

2018.01.03
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49 件のコメント

  • 反出生主義への反論は難しいですが、一寸延びれば尋延びるという考え方から飛躍して反論を考えてみました。

    出産や子育てにしたって大変だが、目の前の困難を一つ一つ乗り越えていけば子供という可能性のある存在を生み出すことができる。
    勉強や仕事や人間関係など、生きることは大変だが、目の前の困難を一つ一つ乗り越えていけば将来思いもよらない出会いがあったり、何かを成し遂げるかもしれない。
    そして、困難を乗り越えられず人生に挫折し、不満足や無念を抱えた形で命を断つものの存在は悲しいが、犠牲を出しつつも人間社会の存続を一つ一つ積み重ねていけば、人間という存在が新たな高次元やより善い状態にたどり着くかもしれない。
    論理的に考えて、可能性は無からは生まれません。可能性にはリスクという、もっと悪くなる分岐も当然に含まれますが、これを受け入れた上で「有から生まれる可能性に希望を託したい(託すのを善とする)という主義」があったとしたら、それほど論理性を失っていない反出生主義の反論となるのではないでしょうか。

    世にスタンダードとなっているあらゆる出生主義は、しばしば生まれさせられる側に立つという視点が欠けているので私は嫌いです。上の反論にしてもそうです。
    しかし、生まれる側の視点が欠けているというのは出生主義への批判にならないかと思います。反出生主義も、生む側の視点(喜びやメリット)は一旦脇に置いて考えているのですから。でも私は、生む側の視点が欠けているという点で論理的ではなく、感情的に出生主義というものが嫌いです。
    考えさせられるトピックをありがとうございます。

    • 生まれていない仮想人格の機会損失の可能性について、生きている人と同等に扱うのは錯覚ですよね。
      生まれていないならば、どんなに大規模に良いことの可能性が阻止されようと、苦や不充足などの「人的問題」は一切発生しません。

      あなたの想像上の可能性の段階の仮想人格と、実際の人的問題を抱えるであろう生きた人間と区別するという大前提を見失えば
      実存主義から離れた荒唐無稽になってしまいますね。

  • 反出生主義への反論は可能です。
    まず、反出生主義は生命が存在することを苦痛としその再生産
    つまり子供を生む、を行わないことを是としますが
    全ての価値は無であるというニヒリズムに基けば、そこへ正負の価値を持ち出すこと自体が矛盾しています。
    生命も人生も無である、幸不幸は主観に過ぎません。
    ここまでが主義へ反論です。
    ただ、反出生主義の捉え方や範囲が難しいです。
    反出生主義を道徳的規範とするなら、今度は社会の在り方や
    そこから生じる道徳観、個人の生き方について論じることになると思いますが
    そこまでいくと。。。。

    • 我々は、真の価値などとは無縁で、よってそれには関心がありませんが、主観的な価値は最も切実なものであるという事実はどうするんですか?

      あなたの言っていることは
      「人間の抱える問題などどうでもよいという見地に立てば何もかもどうでもよくなる。」ということにすぎません。

      ニヒリズムというのは形而上学からの物言いです。
      そこから規範を発することは、「自然主義的誤謬」のひとつでしょう。
      人間にとってどんな酷い命令も可能になる見地です。

    • >全ての価値は無であるというニヒリズムに基けば、そこへ正負の価値を持ち出すこと自体が矛盾しています。
      反出生主義とニヒリズムは別物だと思います。
      すでに生まれた命については否定しない、できれば幸福であるべきだと考えるからです。
      >反出生主義を道徳的規範とするなら~
      まぁ、そこまで話してもしょうがないですよね。

  • コメント返信の限界がきたのでしょうか。
    あらたにコメントを記載させてください。

    反出生主義のWikipedia記載やデイヴィッド・ベネターというキーワードで調べていただければ
    tが記載させていただいた主張をみることができます。
    サンプル:誕生し存在するようになることは、存在者の感情の如何によらず深刻な害悪であり、したがってこれ以上感覚を有する存在を生み出すことは常に道徳的に誤っているという

    >なにしろこれまで覆されたことがないのですから。
    >簡単な反論で覆されてしまうこともあるかもしれませんね。

    反論とは議論に対して使われる言葉であり、日常会話では使用できません。
    山田さんの「この考え」は議論のテーブルに挙げられるほど、個人の思想を廃したものになっていません。
    デイヴィッド・ベネターのように、ロジックを成り立たせてはじめて
    山田さんは反論を得ることができるでしょう。

    したがって、覆されたことがないのではなく、議論にさえなっていないだけです。

    • >誕生し存在するようになることは、存在者の感情の如何によらず深刻な害悪であり、したがってこれ以上感覚を有する存在を生み出すことは常に道徳的に誤っているという
      それはあくまでベネター個人の主張であり、反出生主義の中でも一部の考えでしかありません。
      例えば同じく反出生主義を主張するショーペンハウアーはそんな話をしてますかね?

      >反論とは議論に対して使われる言葉であり、日常会話では使用できません。
      反論とは相手の意見や批判に反対の意見を述べること(三省堂 大辞林より引用)です。
      で、意見とはある事についてもっている考え(同じく大辞林より引用)のことをいいます。
      この定義を踏まえれば反論は日常会話でも十分可能ではないでしょうか。
      「自分はこう思う」というのは意見になり得ますし、「いや、それは間違っている」と反対の意見(=反論)を述べることもできますよね。
      どうして「反論は日常会話で使用できない」ことになるんでしょう?

      >山田さんの「この考え」は議論のテーブルに挙げられるほど、個人の思想を廃したものになっていません。
      仮にそうだとしましょう。
      が、さっきも書いたように個人の思想にだって反論は可能です。

      • こちらのことでしょうか?
        ショーペンハウアーの言を一部抜粋:存在は苦しみで満たされている。世界には喜びより苦しみの方が多い。
        少なくとも二人は同じ主義の擁護者と分類されていますから、同様のロジックは見受けられます。
        >どうして「反論は日常会話で使用できない」ことになるんでしょう?
        言葉足らずでした、申し訳ありません。
        日常会話における反論が可能だ、とする場合
        ある意見の反対の意見を述べさえすれば、反論が成立したことになり
        ブログ冒頭の命題は否定されます。
        しかし、山田さんが求めている反論とは論拠をもとに成立するものと思います。
        これは議論の中で用いられますが、議論の場で個人の思想を論拠もとに反論することは
        日常会話と違って、純粋な個人否定になりますから
        可能かどうかではなく、やるべきではないものということになります。
        また、個人の思想は本人の中で肯定される限り覆されませんから
        あまり議論する意味もありません。

        議論だ、反論してやったぜ。で終わりにしたい、というのならその限りではありませんが
        先に述べたとおりそれは議論のていをなさず、ただの日常会話です。

        • >少なくとも二人は同じ主義の擁護者と分類されていますから、同様のロジックは見受けられます。
          共通しているのは「出生に否定的な意見を持っている」という点です。
          『「生まれたら必ず不幸になる」を真にしようとするのが反出生主義』なんて話はどこにもありません。

          >先に述べたとおりそれは議論のていをなさず、ただの日常会話です。
          というかtさんの考える議論ってなんですか?
          さっきのAとBの会話の例はたしかに日常会話とも言えます。
          が、そこには「〇〇だから××」といった論理のあるやり取りですから、十分議論と言っても良いものだと思います。

          • 『「生まれたら必ず不幸になる」を真にしようとするのが反出生主義』なんてことを言い出す時点でナンセンス。
            それは反出生主義ではありません。
            「あなたの考えは日常会話程度で覆されるものなんですね」というならもうそういうことでいいです。
            もうやり取りをする価値を感じないので切り上げます。
            ぼくの主張とtさんの主張、どちらがもっともらしいと判断するかはコメントを見ている読者の判断に任せようと思います。

            • 8/14にコメントを投稿したものです。
              お二方のやり取りを拝見しました。
              山田さんがおっしゃるように、辞書の定義からして山田さんの考えに「反論」は可能だと思います。
              個人的な反対意見を言えばいいだけですからね。
              したがって、宗教信者やオカルト信者も簡単に山田さんの考えに「反論」できます。

              しかし、その反論に対して山田さん自身が納得するかどうかは別ということでしょう。

              • まぁ、「ラーメンはおいしい」に対して「ラーメンはおいしくない」っていえば反論になっちゃいますしね。
                反対意見を言えば反論になる、は少し雑すぎたと思います。
                ただ「〇〇は××なんだから反出生主義はおかしくね?」という論理的な反論はできるんじゃないの?と思うんです。

                • > ただ「〇〇は××なんだから反出生主義はおかしくね?」という論理的な反論はできるんじゃないの?と思うんです
                  私もそう思いました。
                  例えば、〇〇=「人間」、××=「幸福も感じることができるので出産は産まれる子にとって良いこと」として反論可能です。
                  しかし、こちらのブログの最初に述べられているように、この反論に対しても論理的に反論が可能です。

                  • >幸福も感じることができるので出産は産まれる子にとって良いこと
                    そうすると「喜ぶかもしれないし嫌がるかもしれない。でも喜ぶかもしれないならやってもOK」ってことになりますよね。
                    その通りだと主張するなら、もう考え方・思想が違うとしか言いようがありません。
                    ここまできてようやく思想は否定できないうんぬんって話になると思うんですよねぇ……。

                    • > もう考え方・思想が違うとしか言いようがありません。
                      ここまできてようやく思想は否定できないうんぬんって話になると思うんですよねぇ……。

                      その通りだと思います。

  • 更に書き込みさせて頂きます。
    課題を紐解く方程式は、難易度が高ければ長くなる。
    別の課題があると、別の方程式が必要となる。
    課題同士は絡み合い複雑化する。
    人の数が増えれば増えるほど方程式は長く、多く、複雑化する。
    人の数が減ってゆけば方程式は短く、少なく、簡略化される。

    軽量、高速、効率化を善と定義するならば人の数が減ってゆく方が良い。
    無理に人の数を減らそうとすれば課題が生まれますから、それは軽量、高速、効率化を善とした定義に反するから行わない。
    これが反出生主義ではないでしょうか。

    幸せか否かを持ち出すと幸福になれば反出生主義は否定されることになりますが
    幸福のために方程式が長く、多く、複雑化することを否定できるなら
    幸福を論点にせず、反出生主義を成立させることが可能です。

    ただし、反出生主義を掲げるなら軽量、高速、効率化を善とした定義に完全に同意できるかがポイントになります。
    これは常に完璧超人でなければ、同意しきれないはずです。
    自身のこだわりも軽量、高速、効率化を善とした定義に反するなら否定する勇気が必要です。

    一方で、出生主義を語る場合でも、いかなるときも自他の幸福を追い求める真摯さや実行力が必要です。

    両者共に環境や社会といった外部要因に左右されない力強さが求められます。

    真の反出生主義者や出生主義者は、方向性が真逆なだけで、自らの主義を全うする素晴らしい人物像が想像できます。

    • 前のコメントと合わせてざっくりまとめると、tさんの主張は「将来的に生きることが苦にならないようになればOKじゃね?」ってことですか?

      まぁ、すべての人間が確実に幸福になれるならそれでもいいとは思いますけど、それは難しいと思います。
      事故を100%防ぐ、病気を100%防ぐ、死を克服するといった対策が必要ですし、死ななくなったらなったで新たな問題が生まれそうです。
      そもそもそこへ行き着くまでの間に何億人、何十億人(おそらくこれ以上)の人が苦しい思いをするわけですから、彼らのことを思えばやはり生むべきではないと思います。

      >幸せか否かを持ち出すと幸福になれば反出生主義は否定されることになりますが
      ここらへんは「将来的に生きることが苦にならないようになればOKじゃね?」を前提にした話ですよね?
      ぼくこの前提を否定する立場なのでここらへんには特にコメントしません。

      >一方で、出生主義を語る場合でも、いかなるときも自他の幸福を追い求める真摯さや実行力が必要です。
      ここ以降は「反出生主義を主張する人も出生をOKと考える人も自分の意見を持っててすごいねぇ」ってことでいいですか?
      だとすれば「そうですか」としか返せないんですけど……。

      • 返信ありがとうございます。

        >tさんの主張は「将来的に生きることが苦にならないようになればOKじゃね?」ってことですか?
        >幸せか否かを持ち出すと幸福になれば反出生主義は否定されることになりますが
        >ここらへんは「将来的に生きることが苦にならないようになればOKじゃね?」を前提にし>た話ですよね?

        異なります。
        下記に展開する、山田さんの主張について、話すためのコメントでした。

        >まぁ、すべての人間が確実に幸福になれるならそれでもいいとは思いますけど、
        >それは難しいと思います。

        まず上述の山田さんの主張は反出生主義と異なっているということは理解されているでしょうか?
        反出生主義は「確実に」という保証がなくても。「難しい」かどうかにもかかわらず
        人類は生まれたら「必ず」不幸になる、という前提に基づいています。
        それを方程式の話でたとえました。

        確実性や難易度をキーワードにあげる人がいた場合、各人の許容できる閾値をクリアすれば反出生主義からは足を洗うと考えられます。

        >「反出生主義を主張する人も出生をOKと考える人も自分の意見を持っててすごいねぇ」っ>てことでいいですか?
        >だとすれば「そうですか」としか返せないんですけど……。

        ただ、足を洗う人は外的要因によって左右されていますから
        自分の意見を強く持った真の主義者、とはいえないでしょう。

        >彼らのことを思えばやはり生むべきではないと思います
        こちらも同様です。
        反出生主義に基づけば、生むべきではなく、存在してはいけない、ということになりますから相手という外的要因を考える以前の問題なのです。

        山田さんは真の主義者でしょうか?私は違うと感じました。
        私からみた山田さんは、社会に不安があって、生むという選択肢を選べない人、です。
        そう思う人がいる、という話なので
        本人がそう思わないような体験ができれば解消する、という話です。

        • >まず上述の山田さんの主張は反出生主義と異なっているということは理解されているでしょうか?
          >反出生主義は「確実に」という保証がなくても。「難しい」かどうかにもかかわらず
          >人類は生まれたら「必ず」不幸になる、という前提に基づいています。
          “仮に”絶対不幸にならないとしたら生んでもいいよねって話ですよ。
          でも実際それは無理だと思う。だから出生に否定的。つまり反出生主義。何もおかしいところはない気がしますけど。
          というか反出生主義の定義って単純に「出生に否定的であること」じゃないんですか?
          それと「生まれたら必ず不幸になる」という命題は間違っていると思います。
          なぜなら「自分は生まれてきて幸せだ」と思う人が1人でもいれば簡単に否定できるからです。

          >確実性や難易度をキーワードにあげる人がいた場合、各人の許容できる閾値をクリアすれば反出生主義からは足を洗うと考えられます。
          >本人がそう思わないような体験ができれば解消する、という話です。
          いや、自分がどんな経験をしていようと、生む子供が不幸になる可能性が0%より上なら生まれるべきじゃないと思います。
          言いたいことは先ほどと繰り返しになりますが、子供が不幸になる可能性を0%にできるなら別にそれでも構いません。
          が、それは不可能だと考えているので反出生主義を支持しているんです。

          • 返信ありがとうございます。

            >というか反出生主義の定義って単純に「出生に否定的であること」じゃないんですか?

            異なります。
            山田さんの述べた「間違った命題」を真であると証明すべく、考察をする考え方が、反出生主義です。

            >生む子供が不幸になる可能性が0%より上なら生まれるべきじゃないと思います。

            上記を例にとって考えて見ましょう。
            可能性が0%より上なら、とありますが、これは過去と同一条件であることを証明できない未来事象について、事象が発生する前に証明を求めており、本来は誤った命題です。
            しかし、誤った命題にしない方法があります。
            可能性は、発生するから存在する。つまり発生させなければ、可能性を証明する議論を行う余地はありません。
            発生させるから、不幸になる可能性が生まれる。だから発生させなければよい、という考え方です。
            また、生まれた場合に不幸になることのほうが多い、というデータを提示していたりします。
            これが反出生主義です。

            >生む子供が不幸になる可能性が0%より上なら生まれるべきじゃないと思います。

            これは現状に対して山田さんが下した評価であって
            反出生主義とは異なります。
            (だから評価が変われば結果が変わる、という論調をしています)
            しかし、反出生主義と異なるということで
            山田さんが下した評価が間違っているとか、是正したりするべきものということにはなりません。
            本人の思いは、本人だけの大切なものです。
            ただ、山田さんにとって大切なものであるならばブログ本文の最後にある
            「反論できる方がいればコメントしていただけると」というのは
            山田さんは、相手に誤った行為を求めている、ということになるでしょうし
            誤った行為に対して、反論になっていない反論がない、だから私あるいはロジックは正しい、というのもおかしな構造です。

            • >山田さんの述べた「間違った命題」を真であると証明すべく、考察をする考え方が、反出生主義です。
              先ほども書いた通り、「生まれたら必ず不幸になる」という命題は「生まれてきて幸せだ」という人が1人でもいれば否定されるので明らかに偽です。
              それを真にしようとするという行為がそもそもナンセンス。
              tさんのいう反出生主義は誰が定義したものなんですか?

              まぁ、ぼくの考えが反出生主義かどうかはこの際置いておきます。
              ぼくのいう反出生主義は「この考え」とでもしておきましょうか。

              >ただ、山田さんにとって大切なものであるならばブログ本文の最後にある
              >「反論できる方がいればコメントしていただけると」というのは
              >山田さんは、相手に誤った行為を求めている、ということになるでしょうし
              >誤った行為に対して、反論になっていない反論がない、だから私あるいはロジックは正しい、というのもおかしな構造です。
              単純に「この考えが間違っている・おかしいと思うならその理由を説明してみてくれ」って話ですよ。
              ただそれを納得いくように説明できる人が見つからないってだけ。

              • >tさんのいう反出生主義は誰が定義したものなんですか?

                ご存じないのですね。
                有名ですので、よく調べてみることをお勧めします。

                >単純に「この考えが間違っている・おかしいと思うならその理由を説明してみてくれ」って話ですよ。
                >ただそれを納得いくように説明できる人が見つからないってだけ。

                山田さんの「この考え」は主義の定義にあてはまりません。
                個人の思想といったものになります。
                山田さんは個人の思想に「間違い」や「おかしさ」があると考えているということでしょうか?

                • >有名ですので、よく調べてみることをお勧めします。
                  「〇〇の××に書いてありますよ」とか言ってくれれば済む話でしょう……。
                  そう言われると『「生まれたら必ず不幸になる」を真にしようとするのが反出生主義』ってのも適当な話なんじゃないの?と思ってしまいますが。

                  >山田さんは個人の思想に「間違い」や「おかしさ」があると考えているということでしょうか?
                  全然ありえると思いますけど。
                  例えば以下のようなやり取りは日常でよく見かける光景では?
                  A「その考えは変じゃないか?」
                  B「そうか?」
                  A「だって〇〇は××なんだから□□だろ?」
                  B「たしかに言われてみればそうだな」

                  • >「〇〇の××に書いてありますよ」とか言ってくれれば済む話でしょう……。
                    反出生主義 という単純なキーワードで検索すれば出てくることを実施していない、ということがわかりました。
                    こういったことは自主性が大事だと考えています。

                    >例えば以下のようなやり取りは日常でよく見かける光景では?

                    日常会話が実施したいとは思いませんでした。
                    また、調べればわかることを実施邸内ことからも。山田さんの「この考え」は
                    ぱっとした思いつきで、日常会話で覆される程度のもの、ということでよいでしょうか?

                    • >反出生主義 という単純なキーワードで検索すれば出てくることを実施していない、ということがわかりました。
                      当然ながらある程度調べた上で話しています。
                      しかし少なくともぼくが調べた範囲で『「生まれたら必ず不幸になる」を真にしようとするのが反出生主義』という記述、もしくはそう解釈できる記述は見つかりませんでした。
                      が、ないものをないと証明するのは悪魔の証明というヤツです。
                      この話をこれ以上先に進めるためにはtさんが『「生まれたら必ず不幸になる」を真にしようとするのが反出生主義』とする根拠を持ち出さなければいけません。

                      >日常会話で覆される程度のもの、ということでよいでしょうか?
                      知りません。なにしろこれまで覆されたことがないのですから。
                      もしかするととても簡単な反論で覆されてしまうこともあるかもしれませんね。
                      どんな形であれこの考えを覆す説明があるなら聞いてみたいと思っていますよ。

  • 8/6にコメントを投稿したものです。
    返信ボタンが無くなってしまったので、このコメントを返信として新たに投稿いたします。

    山田さんがおっしゃるように、生きていない状態に苦がないとする仮説が最も尤もらしいならば、その仮説に基づく反出生主義を採択するというのが合理的だと思います。
    しかし、どの仮説が尤もらしく感じるのかは各人の主観によります。
    仮に全人類に対してアンケートを取ったとして、生きていない状態に苦がないという仮説を尤もらしく感じる人がごく僅かであれば、多数決の原理から反出生主義は採択されるべきではないと思います。
    人類の意思決定として反出生を採択するには、生きていない状態に苦がないという仮説が実際に多くの支持を得る必要があります。

    私の場合、生きていない状態に苦はないという仮説が最も尤もらしいと思っていますし、他の人もそうであると信じていますが、世界には宗教などの信者が蔓延っていますので、この仮説の支持率が高いとは断言できないと思います。
    仮説賛否に対する統計的な測定を実際に行なわないかぎり、反出生主義の客観的な正当性は示せないと思います。

    • >返信ボタンが無くなってしまったので、このコメントを返信として新たに投稿いたします。
      制限がかかっていたみたいですね、すみません。

      さて、コメントへの返信なんですけれども。
      別に人類スケールで考える必要はなくないですか?
      反出生主義は方法論ではなくただの思想なので。
      そりゃあ反出生主義者である自分からすれば「みんながこの考えに同調してくれたらいいな」くらいには思っていますが。

      正しいと思う人は実践すればいいし、間違っていると思うなら無視すればいい。
      けれどぼくは反出生主義が正しいと思うし、人に伝えるべき考えだとも思うのでこの考えを推します。

      というか、今さらなんですけど「生きている状態が苦かもしれないから~」ってのは反論じゃなくて考えが違うだけですよね。
      「焼き肉が一番うまい!」と主張する人に「いやいや、ラーメンが一番うまい」って言うのと構造的に同じな気がします。

      • >「生きている状態が苦かもしれないから~」ってのは反論じゃなくて考えが違うだけですよね。「焼き肉が一番うまい!」と主張する人に「いやいや、ラーメンが一番うまい」って言うのと構造的に同じな気がします。

        全くおっしゃる通り構造的に同じだと思います。
        これまで私が述べてきたことは、
        ・反出生主義が基づく「生きていない状態に苦はない」という仮説の絶対的な正しさは決して示さないこと
        ・仮説の採択という観点から見ても、人の考え方が違うため仮説の統計データを取って反出生が多支持を得るまでは反出生が合理的な採択と言うことはできない
        ということでした。

        しかし、山田さんのおっしゃる通り私がこれまで述べてきたことは、反出生主義への反論になっていないと私も思いました。
        「反論」が具体的に何を指しているのかにもよりますが、次のように私が述べたことの真逆が言えます。
        ・反出生主義が基づく「生きていない状態に苦はない」という仮説が絶対的に誤っているとは決して言えない
        ・仮説の採択という観点から見ても、統計を取っていないので、合理的な採択として誤っているとも言えない。

        したがって、この二つの観点からでは結局反論できていないと私も思いました。

        これまでの議論から反出生主義は客観的に正しいとも客観的に間違っているとも言えません。
        これを踏まえると、生きていない状態という決して確認できないものに関して具体的に言及してしまう宗教や反出生主義よりも、「沈黙」という立場を取るのが最も主観が入らず、合理的であるのではないかと思いました。

        • 客観的に正しいとか間違っているとかはどうでも良くて、単純に「自分はこう思うけどどう?」ってのが思想というものだと思います。

          • 私もそう思います。
            反出生主義は思想なので、根本的な反論は原理的に不可能だとわかりました。
            「反出生主義だから反論できない」のではなく、「一つの思想だから反論できない」ということですね。
            数多くの思想の中で、反出生主義が特別なわけではなく、宗教やオカルトな思想と本質的に同じで、反論はできないのだとわかりました。

            • 原理的に反論できないのは「生きていない状態が無である」って部分だけです。
              この前提を受け入れた上で「それでも人は子供を生むべきだ」と導いてくれれば反論になります。

              • >原理的に反論できないのは「生きていない状態が無である」って部分だけです。
                >この前提を受け入れた上で「それでも人は子供を生むべきだ」と導いてくれれば反論になります。

                コメントさせて頂きます。
                子供を産むという行為は、無の中に何かを格納できる箱を定義することと思います。
                このとき、箱の中に入るものが良いものとは限らない、とか。
                資源や経済は有限なので箱はもう増やさないべきである、というのが反出生主義という理解です。

                さて、一つ考えないといけないのは、反出生主義を掲げる人は、そもそも箱がいらない。とか無の状態こそが適切である、という主張なのか?ということです。
                そういう人もいるかもしれないが、少なくともこのブログで語られている内容は、違うだろう、と思っています。
                もし無こそ適切であるという主張なら自殺を含む何らかの方法ですでに俗世を離れているはずだからです。

                無こそ適切であるではないということは、ポイントは箱があるか、ないかではなく
                1:箱に良いものが入るとは限らない=社会や環境にリスクがある
                2:資源、経済が有限である
                ということが課題なわけですね。

                この課題を少しでも解決していくと、反出生主義は減る傾向みせるような気がします。
                つまり反出生主義者への反論は世代を重ねながら1や2といった課題を解決していくこと、と思います。
                マクロでは技術や社会の進歩、ミクロでは幸せな家庭、人間関係と表されると思います。

                • >そういう人もいるかもしれないが、少なくともこのブログで語られている内容は、違うだろう、と思っています。
                  その通りです。反出生主義はすでに生まれた命を否定するものではありません。
                  個人的には無こそ適切だといって自殺するような過激派は認めていません。

                  >1:箱に良いものが入るとは限らない=社会や環境にリスクがある
                  >2:資源、経済が有限である
                  >ということが課題なわけですね。
                  ぼくが考えるのはあくまで1だけです。

                  残りは次のtさんのコメントにまとめて返信します。

              • おっしゃる通り、原理的に反論できないのは生きていない状態は苦がないとする仮説の部分だけですね。
                その仮説を正しいとすれば、子供は産まない方がよいという結論は倫理に基づいて論理的に導かれている私は思っていますので、反論を見つけることはできませんでした。

  • 僕と同い年なんですね。
    とてもわかりやすい文章で読みやすかったです。ありがとうございます。
    よく反出生主義の議論になると本能だから仕方ないって言う人を
    見かけるんですが、腑に落ちないんですよね。食欲、睡眠欲と性欲って区別できると思うんです。食欲、睡眠欲は直接死につながる
    しなければどうしようもないことだと思うんです。やっぱり人間も生物なので漠然と死というものは怖いじゃないですか。比べて
    性欲は直接死につながることはない、sexしなければ死んでしまう
    、子供を作らなければ死んでしまう、なんてことはありませんから。この事を踏まえて性欲は他のと比べて強力とは言えないんじゃないのかと、今の段階では考えています。
    文章が下手ですいません。返信頂けると嬉しいです。
    失礼します。

    • そもそもの話ですが、本能だから仕方ないってのは反出生主義の反論になっていません。
      本能的に行動することを良しとするのであれば、腹が減ったらスーパーに並んでいる食べ物を買わずに食べても仕方ないってことになるじゃないですか。
      それがおかしいことは誰にでも分かりますよね。理性によって抑えることができるわけですから。
      子供を作る・作らないってのも同じで、人間はそれをたやすくコントロールできるはず。(避妊具だってあるくらいですし)
      「本能だから仕方ない」は反論としては的外れです。

      三大欲求の話はぼくもまったくその通りだと思います。が、反出生主義とは関係ないかと。

  • 僕も現時点では反出生に賛成です。
    しかし無理やり反論してみようと思います。
    反出生主義者の主張では、生きていなければ辛くないという大前提があります。しかしこの前提は正しいと言えない。なぜなら今生きている人間は生まれる前に苦痛を感じているのかどうかを知りえないから。つまり、生きてなければ無の状態なんていうのは、生きてる人間の単なる予想にすぎないのです。反出生主義者は生きてなければ無の状態であって苦しくないと予想するけど、もしかしたら生きていない状態の方がめっちゃ辛いかもしれないじゃん。
    生きていない状態がめっちゃ辛いかもしれない可能性があることを考慮すれば、反出生主義者が理想とする生物のいない世界など危険だといえる。

    • >生きてなければ無の状態なんていうのは、生きてる人間の単なる予想にすぎないのです。
      いやいやいや……さすがに無理矢理過ぎるかと。
      そこまでいくと魂とか霊とかって話になってしまうかと思いますが、そんなことを言い出したらなんでもアリになってしまいます。

      • おっしゃる通り、魂とか霊とかなんでもありです。
        生きていない状態がどのような状態なのかは確かめようがないために、どんな妄想でもその可能性は決して否定できないのです。
        そして、生きていない状態を完全に無であると仮定することも、それら妄想の一つに過ぎません。
        生きていない状態は完全に無であるという仮説と、魂や霊などが存在するというオカルトな仮説の違いは、単に前者の方が信憑性があると感じる人が多いというところでしょう。
        しかし結局これらは予測の域をでないので、本質的には同じ類だと考えます。

        • そういう考え方は結構おもしろいなと思いますが……それを言うなら「生きていない状態の方がめっちゃ心地いいかもしれないじゃん」とも言えますよね。
          さすがに不毛な議論すぎます。

          • 全くおっしゃる通り、不毛な議論なのです。
            生きていない状態がめっちゃ心地いいかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
            それを確認する方法は現状ない。
            結局そこを確認できない以上、反出生を推すべきではないと思います。

            • 生むか生まないか、これは必ずどちらか選ばなくてはいけない問題です。
              生んでいるし生んでいない、という状態にはなりえない。
              じゃあどっちの方が良さそうなの?となったときに反出生主義が出てくるわけです。
              たしかに生まれていない状態がどうかなんて分かりません。が、どうやら生きていない状態は無と考えるのが妥当っぽい。そしてその前提を元にした反出生主義も妥当っぽい。
              別に反出生主義が100%正しい必要なんてないんですよ。
              予想や予測に基づいた行動なんてのも、突き詰めれば「そうするのが一番良さそうだからそうする」ってものですし。
              どちらかを選ばなきゃいけないから妥当っぽい方を選ぶ。だから反出生主義を推す。
              それで十分だと思います。

              • (遅ればせながら参加させていただきます)「匿名」さんの、「もしかしたら生きていない状態の方がめっちゃ辛いかもしれないじゃん。」は、私も、さすがに無理があると思います。そもそも、「辛い」という「感覚」を持つのは脳があってこそのもので、存在すらしていない、つまり脳や感覚器官すら持っていない状態でどうやって「辛い」と感じることができるんでしょうか。その観点から、魂あるいはそのようなものがあると仮定して、一歩進んでその魂とやらが辛いとか悲しいとか嬉しいとか「感じる」と仮定するのは無理があると思います。

  • 山田さんの理解で正しいですよ。

    ただ反出生主義=ベネターではないので、あまりベネターにはこだわらないで欲しいなと思います。私たちは別に功利主義の理屈に乗る必要はないです。
    みんなそこに拘り過ぎているので、最近ちょっと辟易してきました。

    さて、人生はかなり分の悪いロシアンルーレットです。
    どれくらい分が悪いのか、あるいは逆に分が良いのかは、今後きちんとした統計学的研究を俟つ必要があるでしょう。
    でも問題は、リボルバーに銃弾が何発込められているかに関わらず、そもそも他人にロシアンルーレットを強要して良いのかという点です。
    子供が不幸になることを願って産む人はいません。誰もが子供に幸せになって欲しい。けれども、子供は一定の確率で不幸になります。それが厳然たる事実です。

    例えば人間の死亡率は100%です。死なないひとはいません。それではその内訳はというと、
    癌が約30%、心臓病が15%、肺炎が9%、脳梗塞が8%強、事故3%、腎臓病2%、自殺1.6%、大動脈瘤等が1.4%、肝臓病1.2%で、その他23%。
    老衰というのが7%あります。
    この中に含まれずに済むひとはひとりとしていません。もちろん幸せに生きて、幸せに死んでいけるひともいるでしょう。でも誰がそれを言えるでしょうか?

    私たち既に生まれてきてしまった者たちは、ある意味で手遅れです。生きている限り人生という名のギャンブルから降りることはできません。
    これはもう仕方がない。頑張って生きる他ないですよね。
    でも子供は話が別です。産まなければ、その子が不幸になる確率はゼロですからね。ロシアンルーレットに参加せずに済みます。

  • なんの理由もないけど、ただそこにあって、よくわからないけど、動けて、子供を産むことができるから産んで、生きることができるから生きてるだけです。

    死ぬことができるのだから死ぬのです。

    幸せを感じるから求めるし、苦痛を感じるから逃げるのです。

    そこに意味はないです。ただそうあるらしいからそうあるだけです。

    そして「~べき」はただの欲求ですよ。そうなって欲しいというただの願いです。苦痛ばかり感じるから生きていたくなかった。ジェットコースターは怖いから乗りたくなかった。
    ジェットコースターが無ければ乗りたくない欲求も有り得ないし、産まれてなければ産まれるべきでないと願うこともできない。

    我々の主観と呼ばれるものが不幸せを感じていようと、産まれていたくなかったろうと、そうあった痕跡は残り続けます。幸せを感じていようと不幸せを感じていようと全く関係なく。

    我々が分解した食べ物と思っているものが糞やゴミと呼ばれるものになってもその物質をまた同化、合成したりより分解したり。
    生きていると呼ばれる状態にあるだけでエネルギーを利用してなんらかの仕事を既にしています。そして、その営みに対応した動きが我々と呼ばれる人類以外にも行われています。

    ながながと語ったが、営みから外れようとすればするほど疲れるし不幸せになるのは間違いない。
    なぜならエネルギーを余分に使うから。余分に使うことを疲れる、不幸せと呼ぶ。
    わざわざ死のうとすれば痛いし、わざわざ幸せになろうとすれば疲れて不幸だ。
    わざわざ産まれたくなかったと思うのも疲れるから不幸です。

    • 基本的には↓のコメントと同じです。
      あなたの話は「もう産まれているのに今さらあれこれ考えるのは意味がない」ってことですよね。それはその通りだと思います。
      ただ、反出生主義はこれから産まれてくるかもしれない存在についてどうするかって話なんで、その意見については反出生主義には関係ないと言わざるを得ません。

  • 反論もなにも生にはなんの意味もないですよ。
    産まれて来たくなかったといくら言おうとも、人を構成する物質は元々この世に存在しているし、その言葉を紡ぐ意識と呼ばれる物質の状態もただそうあるから結果としてそうなっただけに過ぎない。

    産まれてくるべきだった理由がないのと同じ位産まれてこないべきだった理由もない。

    幸せにも価値はない。

    • 記事の冒頭で”人間は生まれるべきではない”って書いたのが間違いでした。正しくは”産むべきでない”ですね。
      「産まれてくるべきだったか産まれてこないべきだったか」は反出生主義とは関係ないです。
      反出生主義は「産まれてきた子供が幸せになるとは限らないから産むの止めようぜ」って話なんで、産まれてしまったものはしゃーない。

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